「中村弥治右衛門」足跡探訪記

岡山藩燭火の随想 城跡の風物詩    〜随想振興会<豊穣芸術企画 

先祖「中村弥治右衛門」に助けられる?

中村弥治右衛門(なかむらやじえもん)は、私の母方の先祖にあたります。

 

弥治右衛門は江戸時代、現在の岡山県にあたる旧池田藩に於いて、大漂在番(おおたぶざいばん)として、剣の指南役を務めてまいりました。

 

私が幼い頃から母によって、繰り返し聞かされ続けた話は、やはり母も幼少の時代に祖父の中村兼三郎(母から見た母方の祖父)から、同様に繰り返し聞かされ続けた史実でした。

それは、

兼三郎「弥治右衛門(母から見た母方の曾祖父)はのう、お城で剣の指南役を勤めておったんじゃ。だから、他の者が土下座する大名行列の時でも、弥治右衛門は馬上から会釈するだけで良かったんじゃ。お城にはとき様かね様という若君がおってのう、子供だったワシ(兼三郎)も弥治右衛門(兼三郎の父)から上下(かみしも)を着せられて、弥治右衛門に連れられてお城へ行ったもんじゃ。」

母「どうして子供だったお祖父さん(兼三郎)まで、ひいお祖父さん(弥治右衛門)からお城へ連れて行かれたの?。」

兼三郎「そりゃあお前、とき様かね様…若様の遊び相手じゃろうが。」

という、郷愁に満ちた岡山弁満載で、非常にのどかな語り口ではあるけれども、子孫から子孫へ語り継がれる様にと願った先祖によるものらしい、改めて考えると実に驚く様な歴史的事実だったのです。

振り返れば、私は今ではもう結構な年齢になりましたが、若い頃は「平和と平等を築いた現代の日本に生きる人間にとって、先祖が武士だったとか剣の指南役だったとか、そういう話題に一体何の意味があるのだろう?。」という、どちらかと言うと冷めた考え方を持っておりました。

ところが昨年、岸本先生の先祖調査のご活動との出会いにより、私が先祖の中村弥治右衛門の存在を初めて意識し始めて以降、私の身辺に今迄経験した事のない不思議な出来事が起こって来たのです。

とは言え、まだ試行段階でもあり、結論を出すには早いですが、それは「もしかしたらこれは、弥治右衛門という先祖に助けられたのかも知れない。」と思える、胸を熱くする出来事でした。

と言うのは、「皆で幸福な共同体を築いていると信じ込んでいたら、思いがけない一派からの逆恨みを買ってしまっており、いつの間にかそれらの企む者達によって、幸せな共同体の外側を取り囲まれていた。」という長年の忌まわしい事態が昨年になって明るみに出て来て、昨年からそれらの悪しき者達の追放を目的とする行動を私が取り始めており、もしかしたらその効果が出始めたのかも知れないとしか思えない人物との再会が今年の初めにあった、からなのです。

これでは、「子孫として先祖の生涯に光を当てようなんて、身の程知らずの思い上がりであったと反省する他なく、不甲斐ない子孫のピンチを万能な先祖に助けられてばかり。」という結果が、これからも際限なく続くとしか言いようがありませんが、何とも言えない嬉しくも誇らしい気持ちに包まれております。

結局のところ「武士とは何だったのか?。」という問題があるとすれば、恐ろしく歴史に不勉強な私如きに答えられる筈もないのですが、今の時点では「もし現代人が武士から引き継ぐ物があるとすれば、それは危機管理(クライシスマネジメントとリスクマネジメント)のノウハウではないか。」という気がしてなりません。

という次第で、こういう先祖調査の素人による拙いブログで恐縮ですが、今後は出来るだけ歴史を勉強して執筆してまいりますし、何とかして先祖の足跡を辿りに岡山へ出掛ける心算ですので、また時々ブログへ遊びにお越し下さると有り難いです。

どうぞ今後とも宜しくお願いを申し上げます。

 

2021年 令和3年 2月28日 日曜日 21時00分
自宅
 
ブログ執筆 豊穣芸術企画 ホウジョウゲイジュツキカク  Hojo Art Project    
                      キタムラキョウコ